[일본어] 彫刻的な束縛、又は解放 ; 白振基の近作_洪志碩 | |
彫刻的な束縛、又は解放 : 白振基の近作 『あらゆる美術が堅固さと垂直性を保持しようとする努力であるなら、それは、形態そのものが重力に立ち向かう戦い であるため、結束された全体である1 つ、即ち、ゲシュタルトとしてまともに残っていようとする闘争である。』 (Robert Morris, 1966) 過去に、ローバト・モリスは、重力の支配を受ける地上における美術(特に、彫刻)の存在条件として堅固さと垂直性を取り上げたこ とがある。重力に屈服して底に横たわっているもの、敷かれているもの、それ自体は人間の注目を浴びる対象になり得ない。注目を 浴びる対象となるためには、また有意義なものとなるためには、彫刻は垂直に引き起こされるべきである。勿論、その垂直の状態を 恒久的に保持するために、彫刻は十分堅固で且つ硬くなければならない。堅固に真っ直ぐに立てられた彫刻、それは直立歩行する人 間の知覚条件にも符合した。それを、美術史家や批評家らは、ゲシュタルト(Gestalt)、若しくは形態(form)と呼ぶ。このようにゲシ ュタルトや形態を追い求める彫刻を、我らは「形態としての彫刻(sculpture as a form)」と呼ぶことができる。 しかしながら、「形態としての彫刻」に同意しない作家らがいる。その堅固な垂直形態が非常に完全無欠であることから、変化の可能 性を遮ると見なす者らがここに属する。「形態としての彫刻」があまりにも早く「完成」の状態に到達して、その完成に到達するため の過程そのものを無意義にしたと見なす作家らもここに属すると言える。斯かる作家らは、ゲシュタルトと形態を肯定するよりは 否定する側で、反-形態(anti- form)若しくは非定形(formless)の彫刻を実践する。『作品とは、自分で自分を探し出していく手段 で、且つ方法』であり、『自分は未だ完成しておらず、自分の思いは切れ目なく動いており、何らかのものに帰結されるのではない』 (作業ノート, 2016)という見地から作業する白振基も同様にこの範疇に属すると言えるだろう。 『柱の崩壊』(2015)において、この作家は垂直の硬いマーブル(大理石)柱の物性を攻撃したり、その体積を切り離すことで、依然とし て堅固で且つ垂直性を有するものの、これ以上「形態」とは断言し得ない、何らかの状態を得た。一方、マーブルよりももっと硬い玄 武岩柱が「亀裂状態」となった『亀裂、影』(2016)は、垂直に高く積み上げられた(柱の)外形が崩壊に直面していることを示す。斯かる 作業は、「外形」、即ち、形態の「豊満な安定感」を毀損しつつ、上部と下部を連結する柱の本来的な機能そのものを無力化する。それ は、この作家に今まで自分を支えてきた、ある世界が亀裂又は崩壊の状態にあることを示す。興味深いのは、亀裂、崩壊の状態にある ものの、未だ依然としてそれらが柱のように見受けられるという点である。作家の表現を借りると、それは、『全く破壊されたグロテ スク、又は全くThものの状態ではない』。かかる事情に鑑み、白振基の作業は、現在、ここに存在する枠を保持しつつ、その枠の重みを かなり省くことで、該枠の支配から自由になることを追い求めるものであると言える。全ての方向から六面体(立方体)を掘り進め た『全ての方向から(From all directions)』(2015)において、『六面体の全ての面は隠された部分なしで露わになっており、奥と外から 全てのものを吸収し吐いて出す』(作業ノート, 2016)状態にある。刻み付けたり掘り出したりして得られた余白、孔は、それが充填さ れたとき、想像もできなかった内部と外部との交流を可能にする。また、若しかして、それから新しい(再)構築が可能であるかも知 れない。『月食』(2015)が「新しい光の渡来を知らThる前触れ」であることと同様である。白振基の近作には、確実にドン・アズ(Dawn Ades)がダダ(Dada)について言及した「再構築」という偉大な課題に先行する破壊的で、且つ洗浄する痙攣((cleansing convulsion)」 が存在する。 ところが、古い世界の崩壊の後を追う(再)構築はどのように可能だろうか。彫刻の作業過程で切り離された副産物、小さな石を アッサンブラージュ(assemblage)の形態で組み合わThた『光あれ(Fiat lux)』(2016)は興味深い事例である。この作業で作家は底 に散らされている、捨てられた小さな石に孔を穿ち、そこに支持台を挿入して引き起こした。それは、底に水平に敷かれている 石に垂直性を付与する作業でありつつ、部分を連結して「全体」を得る構築(construction)作業である。様々な形態、様々な色彩 の1000個の石は、所定の高さで交互に配置され、「円形」という全体形態を形成する。斯かる場合、石(部分)を1個ずつ引き起こし て交互に配置する作業は、毎瞬間、例外的な状況に直面する。石の大きさや形態が相違しているため、それらを1個ずつ引き起こ しつつ、交互に配置して全体の形状を得る作業は、毎瞬間、多少即興的で且つ場当たり的な対応を必要とする。全体形状(円形) というのは予定されているものの、その部分を連結して全体形態を得る過程は常に予測できないのである。それは、「死」という のが予定されているが、Thきて予測もできない「Th」の毎瞬間を詰めていくべき、人間の存在様態(実存)についての隠喩に該当 する。 「Th」の毎瞬間に達成した成就、意味が常に暫定的で且つ軟弱であるように、『光あれ』において、毎瞬間、また結局に達成された 形状は暫定的で、且つ軟弱に見える。それは、我らが知っている、他の彫刻作品の如く、垂直性を有するものの、重力を乗り越え て堅固に立っているというよりは、無重力の状態で浮かんでいるように見られ、滑らかな全体形状(円形)を具現するものの、堅 固で且つ硬いというよりは、一時的、また暫定的な結合体のように見受けられる。同様に体が関与する全ての方向で点を打つよ うに彫刻(carving)を繰り返すことで得られた形状-『Butterfly effect』(2015)、『Neo Pointage』(2015)、『光と影』(2016)-は、与えら れた条件に主体/作家が能動的に介入して取り付けた最善の形状である。それは、毎瞬間、最善を尽くしてThきてきた人間が、 現在の自分のThに付与する「Thの意味」のようなものである。作家によれば、それは、「アモールファティ(amor fati)」、即ち、苛酷 な運命に対する愛と称するほどのものである。文の前半で私は、白振基の作業を反-形態(anti-form)若しくは非定形(formless) の彫刻と指したが、今一度察してみれば、彼の彫刻で形態(form)に付け加えるべき接頭語(接尾語)としては、反(anti-)や非(- less)よりも再(re-)、間(inter-)、変(trans-)の方が一層適切ではないかと判断される。 洪志碩 (美術批評、檀国大学 の研究教授 ) |
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雕塑的束缚,或是解放 ; 白振基近期作品_洪志硕 | |
雕塑的束缚,或是解放 : 白振基近期作品 “ 如果所有的美术都是力图维持坚固性及竖直性的努力,这源自形态本身对重力的反抗,是以整束的一个整体,即以 格塔式维持其完整存在的斗争” (Robert Morris, 1966) 罗伯特· 莫里斯曾经指出坚固和竖直是美术(特别是雕塑)存在于受重力支配的地面上的必要条件。屈从于重力,躺到在地上的,被碾 压的事物不配成为人们关注的对象。为了获得人们的关注,成为有意义的作品,则必须将雕塑竖直的树立起来。当然为了永久的维持 其竖直的形态,雕塑必须足够牢固坚硬。坚固而直立的雕塑,符合直立行走人类的感知条件。美术评论家称此为格塔式Gestalt或者形 式form。因此我们可以将追求格塔式或者形式的雕塑称坐“ 作为形式的雕塑sculpture as a form” 。 但是有些艺术家对“ 作为形式的雕塑” 持有不同的意见。其中一些艺术家认为坚固竖直的形式,太过极端的完美,摒除了一切变化的 可能性。另一些艺术家则认为“ 作为形式的雕塑” 过早的到达了“ 完成” 的状态,这种‘ 完成’ 使其过程本身变得没有意义。这些艺术家 对于格塔式以及形式的与其说是支持更倾向于否定,实践了反-形式(anti-form) 或者无形式(formless)的雕塑。“ 作品是我寻求自我 的手段和方法” 并且“ 我的自我尚未完成,我的想法在不断的变化,不曾归结于任何结果。”(创作手记,2016)从这个角度进行创作的 白振基也是这些艺术家中的一员。 在《石柱的坍塌》(2015)中,这位艺术家改变了竖直的、坚固的大理石石柱的物性,并且消除了其庞大的体积,得到了完全不可再被称 作坚固的、竖直的,甚至很难称作是‘ 形式’ 的状态。那么在表现比大理石更坚固的玄武岩石柱处于‘ 龟裂的形态’ 的作品《龟裂,影子》 (2016)中,竖直堆砌起的(石柱的)外形面临龟裂的状态。这样的创作通过摧毁‘ 外形’ ,即形式的‘ 丰富的安定感’ ,使连接上半部分 和下半部分的石柱完全失去了其原有的功能。这体现了这位艺术家至今为止支撑其精神世界的支柱正在龟裂,或者是坍塌。更值得我 们关注的是,虽然处于龟裂或者坍塌的状态,依然可以观察到其原本石柱的形态。借用艺术家自己的表述,这些“ 并不是完全损毁的 怪诞形态,也不会成为完全的形态。” 因而白振基的创作在维持现存框架形态的同时,将其大部分重量去除,来表现追求挣脱现有框 架束缚的自由 。每个方面都向内掏空破损的六面体(立方体)《从所有的方向From all directions》2015体现了“ 六面体的所有的面没有 任何隐藏的敞开着,吸纳并释放来自内部和外部的所有事物”(创作手记,2016)的状态。通过雕刻和掏空所得到的留白,空洞使内部 和外部的交流变得可能,这是它们在被填满时所不能想象的。并且也留下了进一步新(再)建设的可能性。正如《月食》(2015)所表现的 “ 预示着新的光明即将到来的征兆” 。白振基近期的作品中确实存在着道恩· 艾滋在谈及Dada 时提到的“ 为了实现再建这一伟大的事业 而进行的具有破坏性,但进化性的颤栗(cleansing convulsion)。 但是在旧世界坍塌之后的(再)建设真的有可能吗?利用在雕塑创作过程中掉落的附产物、小的石块,以集合体assemblage的形态结 合的作品《有了光 Fiat lux》(2016)就是非常值得关注的例子。在这个作品的创作过程中,艺术家将散落在地面上的,被丢弃的石块穿 孔,插入支架,使其树立起来。这不但是将水平散落的石块竖立起来,同时也是将部分连接起来建设construction整体的创作过程。将 各种形态、各种大小、各种色彩的1000个石块在一定高度相互砌合形成成“ 圆形” 的整体形态。这一创作过程中将石块(部分)一个一个 树立砌合的过程,随时面临意料之外的状况。石块的大小形态各异,因而将它们一个个树立相互砌合来完成整体形状的创作过程中, 或多或少的需要即兴的、随机应变的创作。整体的形状(圆形)是既定的,但其各个部分在连接成为整体的过程是完全不可预测的。 这是对虽然其最终的死亡是既定的,但活在不可预测的现在的每一瞬间的人类的Th存形态(存在)的隐喻。 正如人们在Th活的每个瞬间达成的成功和意义总是短暂和脆弱的一样,《有了光》中体现的每一瞬间,以及最终达成的形态也看 起来是短暂而脆弱的。这个作品虽然像我们所见的其他雕塑作品一样竖立着,但看起来并不是战胜了重力而树立的,而像是在没 有重力的状态下漂浮着,虽然表面是光滑的整体形状(圆形),但没有给人坚固的感觉,反而让人觉得是短暂的、一时的结合体。 类似的在主体的所有面上像刻点儿一般反复雕刻(carving)所获的的雕像们-<Butterfly effect>(2015), <Neo Pointage>(2015), 《光与影》(2016)- 是在已有的形态上,由主体/艺术家通过主动的介入而获得的最好的形态。这同每瞬间都在竭尽全力Th活的人 类赋予自己Th命的“ Th的意义” 是相同的。艺术家指出这是“ 命运的爱amor fati” ,即对(残酷的)命运的热爱。在这篇文章伊始我将白 振基的创作归于反形式(anti-form)或者无形式(formless)的雕塑,现在看来他的作品于形式(form)的前缀(后缀)不应是反(anti-) 或者无(-less),而是再(re-),间(inter-),或者是变(trans-)才更加恰当。 洪志硕 (美术评论, 檀国大学 研究教授) |
ARTIST Criticism